歴史的ロマンを秘めた甘柿
柿生の地名のおこりとなったといわれる禅寺丸柿については、伝承を含め諸説ある中で、建保(けんぽう)2年(1214年)に王禅寺の山中で発見とされている。
それからおよそ150年後の応安3年(1370年)、焼失した王禅寺を再建するため、朝廷の命を受け派遣された等海上人(とうかいしょうにん)が、用材を求めて寺の裏山に入った時、秋の日差しを浴び真っ赤に熟した柿の実を見つけ口にしたところ、あまりの美味しさから寺に持ち帰って植え、村人たちにも栽培を勧めたことにより、後に近隣にまで広まったという。
こうした歴史的ロマンを秘めた由来に基づくと、平成26年(2014年)は禅寺丸柿の発見から800年といわれており、この禅寺丸柿の原木(樹齢およそ450年、原木のひこばえ)は、今も王禅寺境内に保存されている。
江戸の市場では柿の王様に
「いなだ子ども風土記」によれば、徳川家康が領地の見回りに王禅寺に来たある時、一人の農夫に柿の名を尋ねたが、名前がないため、家康は土地の名前を採り王禅寺丸柿と名付けたと伝えられている。
後に元禄年間の頃(1700年前後)になって禅寺丸柿と呼ばれるようになったといわれている。
慶安年間の頃(1650年前後)の江戸市場では、禅寺丸柿は柿の品種の王様となっていた。手車に柿籠(かご)を乗せ江戸へ運ぶ作業は、交通機関のない時代では大変な重労働であったが、貴重な収入源であり禅寺丸柿によって人々の生活は支えられていた。
中でも、禅寺丸柿の出荷が最盛期を迎える10月の中頃に行われる池上本門寺の御会式(おえしき)では、「江戸の水菓子」として庶民にもてはやされ、禅寺丸柿はこの時代から農家の大きな収入になっていた。
やがて、禅寺丸柿は大山付近にまで栽培が広がり、明治後期の記録によると、神奈川県内の柿のおよそ半数以上は禅寺丸柿であったという。その味の美味しさは、有機質を多く含む土壌が堆積した柿生の地に適していたといわれている。
「柿の産すこぶる多い」柿生村が誕生
明治22年(1889年)の町村制の施行に伴い、都筑郡の黒川村、栗木村、片平村、五力田村、古沢村、万福寺村、上麻生村、下麻生村、王禅寺村、早野村の10ヶ村が合併して「柿生村」となった。これは、この地域特産の禅寺丸柿の収穫が多い理由から「柿生まれる村」になったといわれる。
同じ都筑郡で、この10ヶ村とはやや距離のある岡上村は、地形的な事由等もあり柿生村には入らず、柿生村と岡上村で一部事務組合を設立し、協同で行政を進めていた。
しかし昭和14年(1939年)、柿生村と岡上村が川崎市に編入されたため、柿生村の名は50年ほどで消えてしまった。
柿生駅から大量の禅寺丸柿を出荷
昭和2年(1927年)に開通した小田急線は、これまでの交通の便に恵まれなかった柿生村の人たちの生活を大きく変えた。時あたかも昭和初期の経済恐慌ではあったが、小田急線の開通と柿生駅の誕生は、それまでの人々の暮らしや地域での活動の広がりに拍車をかけた。
柿生駅の上りホームには引き込み線が設けられ、昭和30年代(1955.1964年)までは、この引き込み線から箱詰めされた大量の禅寺丸柿や地元で生産された野菜が貨物車に乗せられ出荷された。
とりわけ、禅寺丸柿はこの時代から柿の木箱に彩りを加えた共通のレッテルが貼られ、東京を始め各地に出荷されるようになった。
明治天皇に献上された禅寺丸柿
明治の終わり頃、この地域で大変名誉な出来事があった。それは、都筑郡柿生村王禅寺の森七郎氏栽培の禅寺丸柿が、明治42年(1909年)10月に明治天皇に献上されたことである。
禅寺丸柿の献上は、この地域を挙げて取り組まれ、横浜貿易新報は、身を清めた採取委員によってもぎ取られた柿は、都筑郡長、村長、村会議員等の立ち会いの中で採取式を挙げ・・・と大きく取り上げている。
そして、「献上柿子」という幟(のぼり)をたて、大八車で長津田駅まで運ばれ、横浜線で神奈川県庁に到着し、県知事の手によって明治天皇に献上された。その後、宮内大臣より郡長あての証と郡長より森七郎氏宛の書が届き、今も額に入れられ保存されている。
北原白秋が柿生の里と禅寺丸柿を讃える
初秋の王禅寺日本の代表的な詩人である北原白秋は、昭和10年(1935年)の秋に王禅寺を初めて訪れている。その後もしばしば王禅寺を訪れ、その静寂な境内の環境に感動するとともに、柿生の里と禅寺丸柿を讃える長歌を詠っている。
白秋は、晩秋の美しい柿生の里の風景を詠い、「柿生の里は、柿が生うるところから名づけられたが、名に持つのみならず、禅寺丸柿というすばらしい実りがある」と記している。
白秋の柿生の里と禅寺丸柿を讃えた長歌の一節「柿生ふる柿生の里、名のみかは禅寺丸柿、山柿の赤きを見れば、まつぶさに秋か闌(た)けたる」は広く知られており、後に歌碑が境内に建立された。
最盛期には名古屋にまで出荷
禅寺丸柿は甘みの強い柿で、明治の末期になると関東地方はもとより、福島から広島にまで栽培が広まり、柿生産の禅寺丸柿は、最盛期には名古屋の市場にも大量に出荷された記録がある。
大正10年(1921年)の柿生村の禅寺丸柿の生産量は938トンに達したと記録されている。
また、昭和7年(1932年)発刊の「柿生村・岡上村郷土誌」によれば、禅寺丸柿の総数は9,000本と記されている。しかし、やがて他の新しい品種に押され大正10年(1921)を境に衰退して行った。
保存会が発足、地域への伝承活動
時を経た平成7年(1995年)、地元有志により禅寺丸柿を保存する運動が起こり、柿生禅寺丸柿保存会が結成された。この時の禅寺丸柿は、2,779本ほど現存し、収穫量はおよそ63トンであった。その後、保存会は禅寺丸柿の記念植樹を行うなど、今日まで活発な保存運動が様々な場で行われている。
そうした運動の中でも、平成8年(1996年)にはJAセレサ川崎や山梨県内のワイナリーなど多くの関係機関からの情報や指導を受け、禅寺丸柿をもとにしたワインの試作に成功した。
さらに翌年の平成9年(1997年)には禅寺丸柿のワインが初めて製造、販売された。以降毎年製造・販売を続け、柿ワインは人々に親しまれたが、令和2年(2020年)をもって製造を終了した。
また、区民の間では、この地元名産の歴史ある甘柿を讃える文化活動も活発になり、昭和48年(1973年)には「柿生音頭」が、平成2年(1990年)には「禅寺丸音頭」が作られ、今も盆踊りや区民まつり等で歌い踊られている。
国の登録記念物に指定される
平成19年(2007年)に国の指定登録記念物に7本の禅寺丸柿が指定された。この指定登録記念物制度は、従来の文化財保護法に新たな観点を取り入れ、平成17年(2005年)に新設されたものである。
文化財登録原簿に登録された柿の木は、王禅寺の境内にある原木1本と、そこから広まった民家の柿の木(写真は岡上にある柿の木)6本で、平成19年(2007年)7月文部科学大臣から登録証が交付された。
また、登録証銘板が文化庁から渡され、王禅寺境内にある原木の横に設置されている。
禅寺丸柿は「かながわの名木100選」と川崎市選定の「まちの樹50選」にも選ばれている。
皇居東御苑に禅寺丸柿が植樹される
全国の果樹を集めた皇居東御苑の果樹古品種園に、禅寺丸柿平成21年(2009年)に植樹された。ここは皇居本丸の富士見櫓(やぐら)に近い一画で東西にあり、各品種ごとに果樹が植栽されている。西の果樹古品種園にはカキが5品種植栽されてあり、京都、岐阜、広島、静岡の柿と並び神奈川の原産として禅寺丸柿が植栽されている。
歴史ある禅寺丸柿を次代に継承
平成24年(2012年)に禅寺丸柿は、麻生区の花「ヤマユリ」とともに麻生区の木として選定された。振り返れば、私たちの暮らしや地域の歴史は禅寺丸柿とともにあり、その恩恵により育まれてきた。
秋になると真っ赤に熟した柿のなるふるさとの風景、噛みしめると口に中に広がる甘み・・・、私たちの歴史や文化、生活は禅寺丸柿によって支えられて来たといっても過言ではない。
平成24年(2012年)10月21日に開催された「禅寺丸柿サミット」を記念して、10月21日が「禅寺丸柿の日」として制定され、様々な行事が行われるようになった。また、この柿を原材料にしたワインに加え、スイーツ・和菓子等の製造販売や「かきまるくん」のキャラクターも人々の人気を呼んでいる。
「郷土に生まれた禅寺丸柿は、郷人にとって大切な宝であり、誇りあるこの心は、いつまでも持ち続けていく」という語意を秘めた「郷柿誉悠久(ごうしほまれゆうきゅう)」の心を忘れることなく、歴史ある禅寺丸柿を次代に伝えていくことは、私たちの大切な役目である。
10月21日は禅寺丸柿の日
*参考文献 「郷柿誉悠久」柿生禅寺丸柿保存会、「ふるさとは語る」柿生郷土誌刊行会、「王禅寺と禅寺丸」川崎市教育委員会、「いなだ子ども風土記」川崎市立稲田図書館。
*写真・図表提供・出典「郷柿誉悠久」柿生禅寺丸柿保存会、「ふるさとは語る」柿生郷土誌刊行会、麻生区観光写真コンクール作品(「初秋の王禅寺」、小松啓子)、「ふるさと柿生に生きて」柿生昭和会、セレサ川崎農業協同組合。